人を神に祀る

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他人に対する祈りというものは、結構なパワーがあるものだ。
ストーカーみたいに度が過ぎると、相手のほうは体が重くなるなどの不具合を感じるかもしれないが、たとえば旅人や出征兵士に対する陰膳の風習、その他相手への適度な思いやりの気持ちといったものは、時にバリアとなってその相手を禍々しいものから守っていたりする。

これを応用すると、生きている人間を神として祀るということができる。
「大君は神にしませば」を引き出すまでもなく、現人神というのはよく知られているところだが、他にも別の例がある。

たとえば、織田信長は安土城に摠見寺という寺を開いたが、そこに「盆山」と呼ばれる石ころを置いて、自分自身の神体として礼拝されたということが、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に記されている。
また、学校の教科書などでは儒家の山崎闇斎は「垂加神道」を開いたくらしい書かれていないかもしれないが、彼が生きているうちから自分の心神を「垂加霊社」として祀ったというのは、オカルト的にも興味深い話だと思う。

今の芸能人などもだいたい似たようなもので、人々の敬いを受けて、たぶん実物よりもはるかに良い感じの波動を放っているはずだ。
昔なら呪術ですべきものを商業ベースでやってのけるのだから、テレビというのはたいしたものだと思う。
ただ、そんなにも強力な秘術を駆使した織田信長も本能寺の変であっけなく斃れるのだから、強力に見えて実はたいしたことはないのか、それともこの方法に知られざる副作用でもあるのか、効果はあっても運命には抗えないということなのか、真相はよくわからない。
よく考えたらアイドルだって消えるときはすぐにテレビの世界から消えてしまうし。

まあ言ってもはじまらないので、このブログを見ているBotでない人間の皆さんには、ブログを書いている私が大量のお金に恵まれることでも祈っていただけたらよいと思う。
ひょっとしたら私の「心神」なるものが働いて、多少は祈ってくれた皆さんにラッキーなことでも恩返しできるかもしれない。