神社で視線を感じるとき

神社などの境内に来た時に、なにもないはずのところから、何故か視線を感じたりすることがある。
浮遊している霊のしわざということも、もちろんあるわけだが、場合によっては原因が他にあることもある。

鳥居があって拝殿と本殿があって、というのが一般常識として神社に備わっている施設ということになるが、こうしたいかにも「神社らしい」感じに整えられたのは、実は明治時代に入ってからで、たかだか百年程度の歴史しかもたない。
それ以前の時代といえば、積極的な社寺改革を行っていた一部の藩を除いては、神仏習合のままというのが普通であり、神社の境内には五重塔だの多宝塔だのがあったり、石仏が祀られていたりもしたのだ。

そのよすがとでもいうのか、なんにもないただの草むらであるように見えて、実は明治の廃仏毀釈まではしっかりと巨大な建物があって、供養が行われていたとか、いまは首から上は破壊されてなくなってしまったような石仏が、一体だけすべて破壊されるのだけは免れてひっそりと立っていたりとか、そういうことがあるのだ。

どうも物理的にはもう何もないか、わずかな痕跡しかない場所であっても、波動の世界ではまだその場所にとどまっているという場合があるようで、浮遊する霊のような敵意のまなざしとは違った、また別の視線が参拝者に注がれているようなのである。