護摩木を火にくべて経を読むとか、祝詞を読んで大幣を振るというと、考えてみればたいがい簡単な動作ではあるが、憑き物が落ちるというか、悪いエネルギーが抜けていくという感覚はたしかにあるものだ。
こうした一定の動作をすると、浄化などの一定のエネルギーが発生するというのは、長い間に一種の神仏との契約のようになっているらしい。
逆にいえば、神社仏閣で願いを叶えようと思うときには、決まりきった行為をするというのも効果的だ。
たとえば、願いごとを絵馬に書いて奉納するとか、迷っているときにおみくじをひくといった行為で、たわいもないことかもしれないが、拝殿や本堂の前で手を合わせるだけということよりも、はるかに良い成績があるのではないかと思う。
これをさらに応用するとすれば、人工精霊やタルパのようなものを脳内設定するにあたって、あらかじめ一定の動作をすれば、かならずその人工精霊なりタルパなりが出現するとか、目的の働きをするといった内容を盛り込んでおくというのもある。
これは呪文を唱えると人工精霊、タルパが出現するでもよいし、特定の指を組み合わせてムドラー(印)をつくるといったものでもよいだろう。
その際、自分自身だけが知っている、といったサインにしておくと、その人工精霊なりタルパなりに命令できるのは自分だけという強烈に意識付けにもなる。
ただ、一定の様式にしたがっているがゆえに、困ったこともある。
縁切りなどを専門にしている神社仏閣には、他人との絶縁を願う絵馬などが掲示されていたりする。
他人の絵馬というのは、普通ならば見ていてほほえましい程度のものだが、こうしたとこの絵馬に限っては、たとえば「憎い女とあの人との仲を引き裂く」といった、ほとんど呪いに近いようなものがある。
こうしたものは、枚数が貯まればお焚き上げでもして浄化されるのだろうが、絵馬掛けにつるされているものは、まだ生のままの毒々しさを放っていて、しかも様式に則った行為なのでパワーアップしてしまっている。
そのため、敏感な人であれば、絵馬のある場所に近づいただけなのに、体がちくちくするとか、吐き気がするとか、謎のねっとり感を感じるとか、ドブ川のような臭いがあるとか、何らかのネガティブな身体感覚を引き起こしてしまうこともあるのだ。