お百度参りの効果

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「お百度参り」というのは、神社によっても微妙な違いはあるようだが、たいていは境内の入口から拝殿や本堂で祈願をして、またもとの入口に戻るという動作を百回ほど繰り返して、神仏に切実な願いごとをするという方法である。

場所によっては、そろばん玉のようなものが付いた「百度石」のような標柱が建っているので、百回になったかどうかをそろばん玉を動かして数えたりもする。

人を呪うときにする「丑の刻参り」てせはないので、他人に「お百度参り」をしている姿を見られてもよいという話もあれば、いや、他人に見られたら効果がなくなるという説もあるし、裸足でしなければならないという人もいて、なんとも百家争鳴の状態である。

こうした「お百度参り」は、神仏に至誠が伝わるので、ぜひともしたほうがよいと言われているようだが、個人的にはどうなのかなと疑問に思うところだ。

普段はあまりそういうことはしないのだが、たまたま夜中の神社を参拝していたら、「お百度参り」の現場に出くわしてしまったことがある。
やはりなんというか、必死なのはわかるのだが、鬼気迫る感じ、異様な感じというのは拭い去ることができなかった。

神仏への祈願にはあてはまらないかもしれないが、潜在意識を使って願望を実現しようとする場合、あまりに願望をいつまでも意識しすぎてしまうと、かえって願望から遠ざかってしまうという現象が起きることがある。
その理由としては、「願望」が実現するのではなく、「願望を願っている状態」が実現するように働きかけてしまうからだとか、たびたび願望実現を意識するのは、潜在意識を信用していないという暗黙のメッセージになってしまうからだとか、いろいろいわれている。

「お百度参り」に関しても、神仏に至誠が伝わる以前の問題として、「こんなに願っているのにどうして叶えてくれないのか」という恨みつらみの念のほうを倍加させてしまって、素人がやってもかえって逆効果になってしまうのではないだろうか。

そもそも至誠が伝わるといっても、たとえば「ヒンズースクワット百回」とか、「腕立て伏せ百回」くらいなら、中学校の部活動で毎日やっていなかったかどうか、思い出してほしい。
たぶん部活動では「試合前だけ一夜漬けでヒンズースクワット百回」などといったことはなかったはずだが、神社仏閣の参拝になると、どうして「困った時だけ百回参拝」するのだろうか。

そうしたことから考えると、実は毎日祝詞を上げていたり、朝のお勤めをしていたりする神職や僧侶のほうに頼んで、お金を払ってでも適当な祈祷をしてもらったほうが、はるかに効果があるのではないかと思うのである。