スピリチュアルな意味での波動感覚というのは、もちろん生得的なものもあるが、いろいろな体験を通して後から磨くことも可能である。
私も基本的に「生得的」ではないほうのタイプだが、波動感覚がまったくなかったころに訪問して、はっきりとした体感があってびっくりしたのが、京都・鞍馬寺の髪壷堂、正式には「清浄髪奉納祈願所」と呼ばれる場所だ。
この鞍馬寺の髪壷堂は、ケーブルカーで登ってさらに参道を少し歩いた、山の頂上の本堂(金堂)の地下室のようなところにある。
階段を降りた地下室なのでかなり薄暗く、ろうそくの灯りだけがともっているような場所で、たしかガラス越しに中央に仏像があり、周りを骨壷のようなものがずらりと取り囲んでいたと記憶している。
この髪壷堂の中にある骨壷のようなものは、実は鞍馬寺の信者の髪の毛を、叶えたい願望とともに奉納したもので、当然亡くなった人ではなく、今まさに生きている人のものということになる。
当時、波動感覚の何もなかった私が、この髪壷堂からは周囲と異なる波動を感じたのだから、生きている人間の念というものは、相当強いパワーを持っているということになる。
しかし、今だからわかることだが、この生きた人間の波動というものは、神仏の波動などよりも万人にとってかなり体感しやすいものである反面、「よい波動」であるとはとても言えたものではなく、もし敏感な人がこの場所に足を踏み入れたのであれば、逆に圧迫感、薄ら寒さ、吐き気、頭痛などを感じるのではないだろうか。
ひょっとしたらだが、借金や人間関係でのいざこざ、仕事上のトラブルなど、さまざまな不幸にさいなまれていたり、生活に不満や不足を感じていたりして、神仏に救いを求めるというような心理状態に陥って、髪の毛を奉納した人も多いのかもしれない。
前に「常にパワーが供給されている生き霊のほうが、死霊よりもよほど怖い」といった趣旨をブログに書いたような気がするが、これもその一種のようなものといえる。
もう少し言い換えると、生きている人間の念の波動は強力でわかりやすいが、しかし強力だからといって良い波動であるとは限らず、逆に邪念でも体感からすれば強力な場合がある、ということになる。
たとえば神社などでも、神様が高級すぎてエネルギーのほどが人間には良くわからない、逆に弱々しいエネルギーに思えてしまうというケースがあるので、体感が強いから優れた神様だなどと、勝手にジャッジしないほうがよいということだ。
なお、誤解のないように付け加えておくと、鞍馬寺の境内全体としては、明らかに良い意味でのパワースポットになっていて、それは噂に違わずというものなので、近くの貴船神社とともに参詣するとよいだろう。