水に流す 2

(1から続きます)

以前に百姓一揆を企てて刑死した私の前世のことはこのブログのどこかで書いたことと思うが、今生でも失業、要するに「首を切られて」いるわけだ。
正直なところ、私は今生で失業する原因をつくった人物のことをかなり恨んで、前世のトラウマである、他人に殺された恨みとシンクロしていると長いこと思い込んでいた。

ところが、どうも失業してからかなり経過しても、過去の職場でバリバリ仕事をしている夢ばかりを見るので、そのときはたと思い浮かんだことがあった。
前世のトラウマというのは、殺されたことそのものではなくて、殺された結果として、庄屋としての責任が果たせなくなってしまうこと、仕事を放り出して村人に合わせる顔がないということ、村のためにしたい仕事ができずに死んでも死に切れないということだったわけだ。

こうなると、死や恨みというトラウマを水に流すのではなくて、仕事や責任の中断に対する自責の念のようなものを、トラウマとして水に流すのが正解だったということになる。
さらに根本的にトラウマを除去しようと考えるのであれば、さんざん仕事をしたのでもうしなくてもよいということを諄々と自分に説き聞かせるか、逆に別の立場でバリバリ仕事をするかといった、死や恨みとはまったく別のベクトルを持ちださなければならない。
このことに気がつかないと、方法をいくら変えても効果がないということになってしまうわけだ。

見当違いかもしれないが、ここで私が連想するのが、例の「日本死ね」というフレーズだ。
仕事を頑張っても保育園に落ちるような社会は間違っているから「日本死ね」というわけで、それが現代人の共感を集める部分があったからこそ人口に膾炙したのだろうが、昔の人であれば「日本死ね」ではなく、こんな社会ではもう生きられないから「私が死ぬしかない」という考えのほうが先に来たのではないだろうか。
さらに言えば、「私が死ぬしかない」のだが、保育園に行く年齢の子供を残しては「死んでも死にきれない」ので、それがトラウマになるわけだ。

社畜根性だの封建制度の遺物だのと言われるかもしれないが、少なくとも「前世」であった時代には、どちらの考え方がよりリアルであったかは明らかなので、トラウマが出来た時代に即して対処しないと、現在の悩みもなかなか尽きないということになりかねない。