エネルギーの飽和

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神仏を礼拝する際に、ある種のシンボルを用いることがある。
古代であれば目立った場所や形状の岩を、いわゆる磐座として目印にしたであろうし、仏像や神像といった彫刻物、鏡のような御神体、御正体、曼荼羅といったものも、形なきものに形を与えてわかりやすくするという意味でシンボルとして加えてもよいだろう。
どこの家庭にもある木や神の御札などもそうだし、中世ならば梵語の一文字で特定の仏を表す種字なども多用されたはずだ。
本来は、こうしたものは単に神仏の本体とつながるための目印に過ぎないのだろうが、それ自身がエネルギーを持つというか、エネルギーが残留するということはあるわけだ。

そこで、仏像や曼荼羅をはじめとするシンボルを、紙の代わりにjpegのようなファイルにして、パソコンにそのファイルを大量にコピーして蓄積しても、ある種のポジティブなエネルギーが発生することがあるようだ。
小型のusbメモリのようなものであれば、他のファイルと隔離して保存でき、コピーも移動もしやすいので私も愛用している。

このようなファイルをコピーするときに、体の底からジンジンとするような感覚があることがあって、それはコピーがうまくいった証拠でもあるのだが、途中まではコピーをすればするほど、この感覚も高まってゆくものの、ある時点を過ぎると、あまりそうした感覚が感じられなくなってしまう。

理科の実験で水に食塩を溶かしたときに、途中まではいくらでも溶けて水は透明のままを保つものの、ある一点を過ぎるとそれ以上は溶けようもなくなり、食塩の結晶がそのまま浮き出てしまう、飽和の状態と似ている。
今回はエネルギーの媒体としてusbメモリを使ったわけだが、途中まではいくらでもエネルギーを閉じ込めることができても、やがてこれ以上は入りきらないという飽和状態があるようだ。
それがどの時点、要するに曼荼羅何枚分になるのかというのは、実験していないのでわからないが、もし実験をしてみれば、エネルギーを閉じ込められる限界を数値的に表したり、エネルギーを蓄積しやすい材質や形状を明らかすることもできるようになって、エネルギーグッズ作りも捗るのだろう。