本物と偽物

スピリチュアルな分野というものも、昔とは違ってはるかに一般的になってきていて、たとえばパワースポットやパワーストーンのブームなどはその典型だろう。

そのため、いわゆる新興宗教の教団か、あるいは宗教のカテゴリには属さないようなエネルギーやマインドを扱うテクニックを研鑽する任意団体かといったことを問わず、その道の師匠や教祖という立場、肩書をもつ人々も多くみられるようになった。

ここで考えなければならないのは、まずはその教祖なり師匠の言っていることが正しいかどうかなどというのは、素人にはまったくわからないということだ。なので「このグッズは強力な浄化力をもつ」などと言われても、実際にはそんなパワーなどまったくなかった、ということは有り得る話で、事前に評判などを下調べするか、偽物かもしれないという覚悟で人体実験をしてみるほかはないわけだ。

そして、もしもそうした教義やテクニックが本物だったとしても、それが教祖や師匠の人格が優れているという保証にはならず、あくまでもテクニックはテクニック、人格は人格なので、そのあたりを盲信しないようにしなければならないというのも、心すべき点といえる。

いつぞや割と有名な師匠筋の人にたまたま神社の境内で出くわしたことがあるが、なんというか、全国にいる信者が「師匠はすごい」と大げさに言っている言葉に反して、随分と風采の上がらない感じの人だなと感じたことがある。どちらかというと、というよりも絶対に、お付きの人か弟子か何かは知らないが、隣にいた女性のほうがカリスマ的なオーラがビンビン感じられて、どうもスピリチュアル界隈というのはよく分からない世界だなという印象だった。

まあ気配が薄い、印象が薄いというのは、それだけで良し悪しを判断できるものではないので、念のために書いておくと、例えば突発的な事故、いわゆる頭の打ち所が悪かった場合とか、修行でチャクラを開いて覚醒した、といった人の場合に、一般人が思うような「覚醒した人」とは違う印象を与えてしまうような人がいるのも事実といえる。

たぶん、「覚醒した人」というのは、誰にでも優しく慈愛にあふれていて、世の中の問題のために自己犠牲を厭わない人、というのが、一般人が思うプロトタイプだろう。

しかし、実際には、世の中のことすべてに対してつまらなそうにしている、自分本位で他人にかかわらず冷たい感じがする、根っからの理系脳のような醒めた考え方をしている、といったことがある。

考えてみれば、世の中のすべてが分かってしまった、腑に落ちてしまった「覚醒した人」にとって、世の中というのはすでにわかっている答えばかりが存在していて、問題を解く喜び、手応えがない、つまらない世界であるのは道理だろう。

木鶏とか能ある鷹は爪隠すという言葉があるが、そうした意味で、それなりの肩書を持っている人もあれば、実際にはあまり目立たずに活動をしている隠者のような人もいるものだ。