たまに神社の境内にある大木に手を当ててじっとしている人を見かけるが、半分くらいは何もわからないままエネルギーを吸い取っているつもりになっているのだろう。あの手の樹木というのは確かにパワースポットの一種として適当ではあるのだが、単に手を当てるだけではあまり意味がないかもしれない。
手を当てるにしても、例えば樹木の内部に漲っているエネルギーが、そのまま体内に入って脳天から背骨を通り、尾てい骨まで回って、そこから表面の腹(丹田)、みぞおち、胸の中心を経て、ふたたび手に戻って樹木に還流するといった、エネルギーがぐるぐる循環するようなイメージを描きながらにするとよいかもしれない。
本当は手など当てないでも、樹木の傍らあたりに立ったままで、天からのエネルギーが樹木のてっぺんから樹木の幹を通って根っこまで伝い、根っこから地面を通って自分の足の裏に入り、そこから尾てい骨、背骨を経由して頭頂に、さらに天に抜けてふたたび樹木のてっぺんに至るような、もっと大きな循環でもよいと思う。
一方的に吸い取ることを意図するのではなくて、ぐるぐる回っているだけだからエネルギーは結局増えても減ってもいないが、相互作用で淀みがなくなる、新陳代謝が出るといったイメージのほうが、結果としてうまくいく。
杉、タブノキ、松、銀杏、スダジイなどでこの種の大木をよく見かけるが、たぶん樹木の種類によってエネルギーの質も違うのだろうとは思うものの、百年、千年と生きている大木になると、実際に種類の違いがどのように出ているのかはよくわからない。